沿革

当社に伝わる『中條八幡宮由緒 守屋家系譜』(以下、『八幡宮由緒』とする)に所収された古文書等により、社殿に関する沿革をまとめておく。

 当社は、仁和元年(八八五)、八幡原の里に宇佐八幡宮を奉祀したのが始まりという。その後、嘉禎三年(一二三七)には散位阿那定親が板の阿弥陀経を、建武二年(一三三五)には当社を篤く尊敬した備後守浅山條就が酒甕を奉納したと伝えられている。八村の大産神であったが、祭礼には大勢の氏子が寄り合い、毎年喧嘩があったという。永正三年(一五〇六)に第九代神主守屋由秀が現在の地へ御神体を遷し祀り、他の村々には御幣を持ち帰り祀ったと伝えられている。同年十二月に八尋殿(本殿)を建立したことが棟札写によって知られる。天文年中(一五三二~一五五五)には備後滝山城主の宮高雲入道、中条城主宮治郎左衛門勝信が篤く尊敬し、社殿を修繕したという。

 元和五年(一六一九)に福山藩主となった水野勝成は当社を篤く尊敬し、元和年間に社殿の造営をし、寛永十三年(一六三五)には重臣水野亀之進に命じて石華表(石鳥居)を建立させたと伝えられているが、この時の社殿や鳥居は現存しない。元禄十一年(一六九八)に天領となってからは嘉永五年(一八五二)まで領主との関わりはなくなったという。

 元禄十一年(一六九八)正月に社殿改築の儀が起こり、上下陣屋に願い出て決定が下された後、工事が始められ、同十二年二月に完成、正遷宮を行った。これが現在の本殿である。同十三年には大鳥居(現在の石鳥居)が再建されている。天保六年(一八三五)に随神門が再建され、同七年には拝殿(現在の社務所)及び神輿庫が建立されたという。

その後、慶応元年(一八六五)には末社濱森神社、明治十一年(一八七八)には末社安原神社が再建され、同十八年(一八八五)には湯立行事殿、同二十年(一八八七)には廻廊が建立されたという。