一)規模・構造形式
本殿は、正面三間・側面二間の身舎の前面に一間通りの庇を付し、正面中央に一間幅の向拝を付した三間社である(図2)。屋根は流造を檜皮葺とし、頂部には千木・堅魚木を載せる。背面を除く三面に切目縁を廻らせ、脇障子を建て、擬宝珠高欄を設ける。正面には五級の石階を設け、向拝の屋根は軒唐破風とする。
身舎を内陣、庇を外陣とする(図3)。内陣後方中央は、柱を立て内々陣とする。内々陣の両脇は祭壇とする。内陣廻りは、正面において中央間を両引戸、両脇間を内開きの蔀とし向かって左側面において前寄り柱間を片引戸とする他はすべて板壁とする。
内々陣廻りは、正面に板扉を開き、側面は板壁で囲む。外陣廻りは、正面において両脇間に腰板を嵌める以外は、建具を設けず開放とする(図4)。外陣の床は廻縁より一段上げ、内陣の床は外陣よりさらに一段高める。
亀腹上に礎石を据え、身舎には円柱、庇には唐戸面を取った角柱を立てる。身舎廻りは上下に長押を打って固め、柱上部には頭貫を輪薙ぎ込む。背面の隅柱上のみ、頭貫先端を木鼻とし、十字に付す。組物は拳鼻付きの平三斗(四隅のみ連三斗)とし、実肘木を介して桁または虹梁を受ける(図5)。
中備は本蟇股とする。妻飾は二重虹梁大瓶束とし、二重虹梁上の大瓶束には若葉をかたどった笈形を付す。大瓶束上には連三斗を載せ、化粧母屋桁または化粧棟木を受ける。身舎内部の内々陣廻りは、腰長押および内法長押で固め、柱頂部には頭貫を輪薙ぎ込み、桁行方向にのみ木鼻を付す。柱上には拳鼻付きの平三斗を組み、実肘木で天井縁を受ける(図6)。中備に本蟇股を配す。内陣には竿縁天井を張る。
庇においては、縁長押と頭貫で柱を固める。頭貫先端は木鼻とする。組物は、拳鼻を付した平三斗(両端は連三斗)とし、実肘木を介して軒桁を受ける。中備には本蟇股を配す。両端の庇柱から相対する身舎柱へ海老虹梁を架ける。化粧屋根裏とする。
向拝は、礎盤に唐戸面を施した角柱を立て、水引虹梁を渡す。その先端は象を丸彫りとした木鼻を付す。組物は連三斗とし実肘木で向拝桁を受け、内側には手挟を配す。中備は本蟇股とする。
軒については、身舎および庇は二軒繁垂木とする。向拝は二軒繁垂木とし、中央を軒唐破風にすることに伴い、輪垂木は繁に配す。
(二)墨書銘と建築年代
内々陣正面の左右の柱には墨書銘があり、そのうち向かって右側(南)の柱に「一□□□□□□十二月日願主当村惣氏子」、「此宮元禄十二年卯之八月吉辰施主両村惣氏子神主佐藤丹後守由次謹言」と二行に渡って記され(図7)ており、元禄十二年(一六九九)に中条村の氏子が願主および施主となって建立されたものであることが分かる。
また、元禄の棟札写も伝えられている。「維時元禄拾二星(中略)二月十二日」、「奉八幡大神正遷宮三元五大磤馭嶋於是化立八尋殿天長地久祈願円満両村産子繁昌祈処」とあり、元禄十二年に八尋殿(本殿)を建て、正遷宮を行ったことが知られ、建築年代が裏付けられる。願主としては表面に「西中条庄屋松井弥次兵衛博実、東中条庄屋渡辺孫右ヱ門尹貞」、裏面に「願主両村惣産子」とあり、西中条村と東中条村の庄屋を含めた氏子一同による造営であることが分かる。また、「大工、藤原朝臣森田杢左右ヱ門、同真田八右ヱ門」とある。「中條八幡神社由緒調書」(以下、「由緒調書」とする。『八幡宮由緒』所収)においては、「幕府領内ノ名匠藤原朝臣森田杢左衛門ハ代官所ノ内命ヲ受ケ工事ヲ棟梁シ真田八右衛門ヲ頭大工トシテ工ヲ起シ」とあり、幕府領内の名匠森田杢左衛門(森田杢左右ヱ門)を棟梁とし、真田八右衛門を頭大工として工事を始めたことが知られる。
その建築年代は、向拝の水引虹梁(図8)、妻飾の二重虹梁(図9)、庇に架かる海老虹梁に刻された渦巻や若葉の絵様によく表れている。代表として向拝の水引虹梁を見ると、袖切を付け、上端に緩やかな鯖尻、下角に捨眉、下端には錫杖彫を施す。袖切には木瓜渦(渦巻を木瓜形としたもの)を彫り、木瓜渦から少し離れて若葉を付す。袖切先端下部に下向きの突起がないこと、絵様の刻線の幅が細く彫り込みも浅いこと、簡素な若葉とすることは十七世紀の特色であり、渦巻の先端が少し膨らみかけており、袖切がやや長い点から十七世紀後期頃と推定される。また、木瓜渦の流行が十七世紀末期から十八世紀前期であることも、推定年代に合う。妻飾の大虹梁の絵様は少し派手であり、袖切の木瓜渦から少し離れて二連の若葉が刻されており、そのうち袖切に近い方の若葉は、波のような盛り上がりを連続させた珍しい意匠とする。一方、二重虹梁の絵様は少し簡素で、木瓜渦とはせず半周強程巻いた渦巻に若葉を付す。それぞれの虹梁の絵様の渦巻や若葉は一様とはせず変化を付けているが、刻線の性質は同じであり、すべて同時代の虹梁としてよい。
(三)当初材の残存状況と後世の改変
柱をはじめとして主として欅の良材が使われており、内陣天井板以外ほとんどが当初材である。
後世の改変としては、建具の一部変更に限られる(図10)。現在、内陣正面中央柱間が両開きの引戸になっているが、もとは蔀であったことが痕跡から確かめられる。これは、近年の修理によるものである。また、内陣側面の片引戸については戸板や間柱の風食が当初材に比べてやや少なく、中古(幕末から明治頃か)における変更であろう。戸当たりや敷居等で実見できてはいないが、当初は他の柱間と同様に板壁であったと推察される。それから、現在、庇正面両脇間には腰板が嵌めてあるが、これは後世に補加されたものである。同柱間の頭貫下には二本溝の鴨居が補加されており、中古の一時期に引き違いの建具が設けられていたものと考えられる。当初は、建具はなく開放としていたと推察される。庇の床板を保護するように、本来の床板の上に別の板が重ねて敷かれているが、風食の程度から近代における変更と考えられる。
元禄に建築された後の修理については、『八幡宮由緒』に所収された棟札写や記録から知られる。明治十八年に向拝の石階を修設し、昭和三年に内陣御帳台を新設したという。屋根の葺き替えについては、宝暦四年(一七五四)、安永六年(一七七七)、昭和十八年、昭和五十六年に行ったことが記録により知られる。
以上のように、建築後の改変は建具の変更に留まるものであり、当初の構造形式をよく保っている。